長州を守った男

講談師・神田織音さん

軽快な名調子で吉川経幹公語る

熱演する神田織音さん

 平成30年5月14日夜、岩国国際観光ホテルで開かれた岩国吉川会(隅喜彦会長)の総会で、女流講談師の神田織音(かんだ・おりね)さんが、幕末の激動期に長州藩を守るために奮闘した岩国藩第12代当主・吉川経幹(きっかわ・つねまさ)公の生き様を語る講談「長州を守った男」を演じた。講談は会員だけでなく、一般市民にも公開した。

 神田さんが吉川会で講談を行うのは2回目。岩国市社会福祉協議会や岩国中学校でも講談を演じ、岩国での舞台は4回目になる。

 「長州を守った男」は明治維新150年にちなむ新作。5月7日、東京都千代田区で開かれた講談協会の講談まつりで初披露された。

 主人公の経幹は文政12年(1829年)、第11代領主・吉川経章の長男として生まれ、天保15年(1844年)1月14日に家督を継いだ。聡明な経幹は弘化4年(1847年)に藩校・養老館を創設。関ケ原以来疎遠な関係だった本家・長州藩毛利家との関係修復に努めた。

 幕末の動乱の中で本家を助け、元治元年(1864年)の第一次長州征伐では幕府との間で仲介役として奔走。慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では芸州口の戦いで幕府軍を撃退する。慶応3年(1867年)3月20日に39歳の若さで死去した。

 その死は長州藩主・毛利敬親(もうり・たかちか)の命で秘され、朝廷は慶応4年(1868年)3月13日、経幹を、江戸時代を通じて吉川家の悲願だった城主格の諸侯と認めた。

 明治元年12月28日(1869年2月9日)に長男・経健に家督を譲ったことにし、3か月後の明治2年3月20日(1869年5月1日)、死が明らかにされた。

 演目を前に神田さんは、講談師が東京と大阪を合わせても80人しかいない「絶滅危惧種」「本日は貴重な機会」と会場を笑わせた。

 「社会福祉協議会の招きで岩国に向かう羽田空港で高校生時代の同級生に会った。全国各地に行くが、旅先で同級生に遭うのは初めて。不思議な縁を感じた。さらに岩国中学校で講談することになったが、弟の嫁、義妹が岩国中学校の卒業生だった。彼女から『お姉さん、いわくに中学ではないんです、がんちゅうです』と聞かされた」

 「また岩国に呼んでいただければと思っていたら、維新150年ということで経幹公の話を頂戴した」

 「吉川会で2回目の講談だが、なじみになれば」と語りかけた。

 安政3年(1856年)、ペリー来航から3年、幕末の日本は大きく揺れ、外国を追い払えと血気に走る攘夷と幕府のにらみ合う時代から始まった。

 攘夷運動の急先鋒となっていた長州を収める毛利敬親はあまりにも過激な藩士に手を焼き、「こうなったら、あの男の力を借りるしかない。吉川経幹を呼び出せ」とする。

 経幹は27歳という若さながら「あれはなかなかの人物」と称された人物。幅広い人脈を持ち、長州藩主・敬親は混乱を乗り切るため、経幹の裁量を頼みにする。敬親は、経幹を萩に招くに当たって「今は一族が力を合わせ、藩をまとめなくてはならないとき。あの掛け軸をかけておけ」と家来に伝えた。

 一方、岩国では本家の招きに「応じられるのですか」と疎遠になっていた関係性から家臣が反発。経幹は「毛利本家を大切にするのが吉川家の家訓」と諭す。

 萩城の座敷で床の間の掛け軸を見た経幹は「やはりそうか」と納得した。掛け軸の絵は老松に蔦が絡まるもの、中国の逸話で血を分け合った兄弟は切っても切れない関係にあることを示すものだった。

 敬親は、長州内が血気盛んで、幕府に煙たがられている苦悩を明かし、「子を守るのは親の役目だが、1人では手が余る」、「わしとともに親となって藩を支えてくれ」と求めた。

 経幹は「毛利は親。親の仰せに従うのは子の役目」と受け入れた。ただし、敬親に「親が親としての役目を果たせぬとき、子はいかがすべき」と覚悟を問い、敬親は「親の背が、子を背負うことができない場合は切ってしまえばいい」と言い切り、重大の覚悟を感じ入った経幹は、長州のために粉骨砕身することを決断した。

 やがて長州藩は攘夷に走り、関門海峡を通過する外国船を砲撃。だが、攘夷を決行したのは長州藩だけ。幕府は会津、薩摩藩に長州を京都から追い出すよう命じた。いわゆる「八月十八日の政変」「七卿落ち」だった。

 薩摩は幕府側につくと見せかけながら、したたかに次の戦略を考えていた。

 神田さんは「ポーカーフェイスができる大人の薩摩に対し、長州は血気盛んな単細胞。その性格の違いを的確に表したのが司馬遼太郎さん。したたかで外交上手な薩摩に比べ、長州は子どもであり、ゆえに可愛い」と語ったと紹介した。

 長州勢は京に押しかけ、会津、薩摩軍と戦って大敗、しかも御所に向けて発砲したことで「朝敵」の汚名を着せられ、第1次長州征討が発動する。

 長州は攘夷で打ち払ったアメリカ、イギリス、オランダ、フランスの四国連合艦隊の報復で下関を焼かれる。

 敬親は「長州が守れるのは経幹だけ」と幕府との和睦交渉を託す。

 長州攻めの期日が迫る中、経幹は新港で西郷隆盛と極秘会談、京を騒がしたことを謝罪し、幕府への口添えを頼む。

 さらに「毛利本家と吉川は長きにわたって疎遠だった」と明かし、敬親とのやり取りを説明、幕府が親なら薩摩は長男、血の気の多い長州も兄弟。だが、親(幕府)はしっかりと子を背負っているか」と問いただす。

 西郷は「ともに徳川を討たんと迫るのか。我が胸のうちを察しているのか」と驚き、依頼を呑む。

 安芸広島・国泰寺護国寺城での詮議に経幹は一人、丸腰の平服で乗り込む。長州征討を中止させ、「神か仏か岩国さまは扇子一つで槍の中」と人々は経幹を称えた。

 だが、高杉晋作率いる藩内の改革派が主流となり、長州は倒幕へと舵を切る。

 続く第2次長州征討では経幹は四境の役で幕府連合軍を撃ち破り、時代は維新へと加速する。経幹はそれを見届けることなく、38歳の生涯に幕を閉じた。

 吉川家は官位が与えられ、大名となり、領から藩へと昇格する。岩国藩の初代藩主になったのが死後1年が経過した経幹だった。藩を守るため、尽力した経幹に対する藩主・尊親の粋な計らいだった。

 神田さんは釈台の前に座り、張り扇を叩きながら名調子で話を進め、経幹の痛快な活躍ぶりに会場は大きな拍手を贈った。(日刊いわくに記事より)