■一級の歴史資料
吉川史料館は広家公が合戦で不戦を貫いたのはなぜか、その経緯と背景を示す史料とゆかりの品34点を展示している。とりわけ「吉川広家直筆覚書案」や「徳川家康書状」、「黒田如水書状」、「黒田長政直筆書状」(いずれも国指定重要文化財)は合戦前後のいきさつが手に取るように分かる一級の歴史史料だ。
このほか、秀吉直筆の付箋がついた「一文字吉家の太刀」、広家が合戦前に家臣・三浦伝右衛門を密使として徳川陣中に派遣した際に使わせた「鯰形兜(なまずがたかぶと)」、黒田如水(じょすい)ゆかりの茶道具「如水釜」など歴史を物語るお宝が並ぶ。
■緊迫した書状のやり取り
美濃(岐阜県)で行われた関ケ原の戦いで西軍は先に陣を構えた。あとから到着した東軍は不利な配置となった上、3万8000人を与えた徳川秀忠の到着が遅れていた。両軍は濃霧の中で対峙、霧が晴れると福島正則隊が宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ち掛け、戦闘が始まった。西軍の多くの武将は戦意に乏しく、様子を見たが、地形的に有利な西軍が東軍を押し気味だった。
東軍の黒田長政は合戦前、西軍の小早川秀秋ら主要な武将を調略していた。戦況判断に迷う秀秋にしびれを切らした家康は昼過ぎ、秀秋陣営に鉄砲を撃ち込んだ。家康の怒りにあわてた秀秋は隣に布陣していた西軍の大谷吉継軍に突撃。これを見た脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保も寝返って西軍に軍勢を向けた。たちまち戦況は変化して西軍は総崩れ。双方合わせ、6000~8000人の戦死者を出して戦東軍の大勝利で終わった。
毛利軍参謀だった広家公が家康側の調略を受け、毛利勢の前に自軍を配置、軍を動かさなかったことが西軍大敗の主因ともされるが、合戦前、広家公は家康の勝利を読んでいた。だが、宗家の毛利輝元が安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の策謀で大坂城に入り、西軍総大将にまつりあげられたことは大誤算だった。広家公は「家康側につくべき」と大坂城で恵瓊と激論をかわして輝元を説得するも、不調に終わり、広家公は毛利家重臣とはかり、友人だった長政と接触、毛利家の所領安堵の約束を家康から取り付けた。
主家の存続を思うがための行動だったが、すべて極秘裏にことを進めたことで戦いの後、毛利家内からも不審の目が広家公に向けられることになった。
合戦の直前、手に汗握るようなやりとりが、広家公と長政のあいだで交わされ、残された文献から戦国武将の友情や信頼、駆け引き、生きざまが浮かび上がる。
■タイミングよく
吉川史料館の原田史子学芸員は、「依然、なぜ広家が動かなかったのか、なぜ西軍を裏切ったのかなどの問い合わせが全国から寄せられる。所蔵している書状などを通じて広家の心情を理解してほしい」と展示の企画意図を説明する。
今回の企画展内容は7月からJR西日本の豪華寝台列車「トワイライトエクスプレス瑞風」が岩国に立ち寄り、乗客が吉川史料館を訪れることで、昨年、年間行事を組む際に決めた。
現在放送中のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」に家康が登場、戦国時代に関心が高まっていることに加え、8月から岡田准一主演の映画「関ケ原」が封切られるため、時流に合うものになった。
■次の天下は家康
展示された慶長5年8月1日付の「黒田如水直筆書状」は、長政の父・如水が広家公に送った手紙。人質として大坂城に隔離されていた東軍側武将の奥方たちの安全を守ってくれるよう広家公に願うものだ。
同年8月8日付の「徳川家康書状」は、輝元が大坂城に入ったのは人質を守るためで家康に敵対するものではないとする広家公の手紙に対する返信で、家康が了解した旨を記している。
如水は9月3日、家康の動向を知らせる書状(黒田如水円清直筆書状)を広家公に送った。この書状で家康の勝利と次の天下の行方を知った広家公は家臣と相談の上、家康とは戦わないことを決めた。だが、西軍に身を置く広家公は、大坂城にいる輝元の身の安全を考え、三成から疑いの目を向けられないよう合戦前に、家康側の城を攻めた。そのあまりの強さに長政は驚き、広家公の真意を確かめる書状を何度も広家公に送った。その書状に対する広家公の書状も展示され、緊迫感が伝わる。
合戦後、毛利家内からの批判に対して、「本家存続のために動いた結果」と真意を説明する「吉川広家覚書案(慶長6年)」も貴重な歴史資料だ。
如水との深い親交を物語る「如水釜」の展示は約3年ぶり。利休から贈られた「茶杓」、天正16年に秀吉から贈られた「茶入れ」は茶道の世界にいる人なら垂涎の品だ。
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吉川史料館開館時間は午前9時~午後5時(ただし入館は午後4時半まで)。入館料は大人500円、大学・高校生300円、小・中学生200円、障害者は半額。休館日は原則、毎週水曜。当日が祝日の場合はその翌日。問い合わせは吉川史料館まで。電話0827(41)1010。 (平成29年6月30日付「日刊いわくに」提供記事)
広家公の願いに、毛利家存続を了とする徳川家康の書状
毛利家に広家公が差し出した関ケ原の顛末をしたためた書状
広家公が徳川へ派遣した密使の家臣に被らせた鯰形兜
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